不安を力に変えるNo1コーチになる、TCS認定コーチの真下知太郎です。
「我慢は美徳」
日本人の多くの人が知っている言葉です。中にはお守りや信念になっている人もいます。
我慢は強制されるものではなく、自分で選択するものだ。という人もいます。
するしないを自分で選ぶとして、その基準はどこにあるのか?
そのためにも、『我慢』と『美徳』の意味と定義を考えたいと思います。
我慢とは
耐えること・自分(意見や行動)を抑えること、という意味で使っている人が多いと思います。
調べて初めて知ったのですが、仏教教養では”うぬぼれ”とか”自分自身に固執して他人をあなどること”という意味もありました。
普段使っている意味とは逆のようにも感じます。
ここでは、普段使っている耐える抑えるとして考えていきます。
我慢しないというのは、耐えない抑えないということですから、争いが多くなりそうなイメージがします。
誰かが我慢しないなら、他の誰かが我慢をすることになる。
これだと、我慢はしない方がいいという考えが自分のためだけのものとなりそうです。
相手が話している時に割り込んで話をしてくる人っていませんか?
自分の話をすること意見を言うことを我慢できない。人の話を聞くことが我慢できない。
こういう人ってなぜか自分が上と思っている人には割り込まないんですよね。
禁煙や禁酒をしている人に向かって「我慢はよくないよ」といって勧めてくる人もいます。
自分は断てないから(我慢できない)から、我慢をしている人を巻き込むのはいい迷惑です。
そして吸ってしまった飲んでしまった後に「自分で決めたんだからこっちのせいにするなよ」みたいな。
人のせいにしない。おっしゃる通りなんですが、なんか、ちょっと、見方が変わります。
我慢するしないの選択の基準となるものがまだイメージできませんので美徳について考えてみます。
美徳とは
人として望ましい立派なあり方や行い。と出てきました。
解釈が分かれる曖昧ワードが沢山の文章です。
自分が美徳と思い行うことが、他人から見て美徳となるとは限らない。
むしろ、自分では当たり前と思っていたことが、他人から見たら美徳に見えている。
このほうがしっくりきます。
『我慢は美徳』と思っている人に、我慢はやめようということは、
その人の大切にしていることを否定していることになります。
否定していると理解しているならまだいいですが、ほとんどの場合自分の価値観を押し付けているだけ。
我慢に対してだけではなく、他にもいろいろと無意識に相手を否定していることってあります。
できるだけ否定しないように意識していますが、0にはならないことを知りました。
だったら、否定しないを守ることをやめてもいいかなと。別の捉え方が必要と感じています。
多くの人が美徳を感じるのはどんな時でしょうか?
困難な状況でも忍耐強く努力を続けている姿
耐えられない=我慢できないと考えることもできます。
また、困難な状況から逃げる諦めることは悪いことではありません。
本人は我慢してる感覚より、覚悟を決めて必要なことのために行っているように感じます。
自分を抑えて協調性を大切にする姿
自分の意見や思想が悪影響を与えると判断できたら抑えることが出来る人が多いと思います。
その判断基準の質が高いか低いかによりますが、合わなすぎるなら距離を取ることも必要です。
あと、悪事への協調性は含みません。
少し前になりますが、アメフトのタックル問題や虐めるグループへ入らないと虐められるなど。
大切なのは協調性ではなく、自分を抑えることが自分と関わる人に与える影響を考えることです。
一途な想い
この人と決めた人を愛し続けること。愛するには許すも含まれてるかもしれません。
勝てなくてもやる気を感じなくても応援し続けること。
決めたことを続けることは美徳に繋がるあり方と感じます。
『我慢は美徳』はどうなのか
それぞれの意味や定義を考えた結果、『我慢は美徳』はありです。
美徳になっているかどうかは別にして、状況を見定め自分をコントロールできる姿は美しいと思います。
我慢をするしないの判断基準は、美徳に繋がるかどうか。
美徳に繋がるというのは、我慢をすることで自分のご機嫌率があがるかどうか。と、
関わる人のご機嫌率が上がるかどうか。
自分のご機嫌率が上がらなくても関わる人が上がっていると、
時間とともに自分のご機嫌率が上がってたということはありませんか?
やってみた結果、我慢してよかったなと思えることって意外に多い気がします。
ただ、我慢はしないほうがいいという意見も間違っているとは思いません。
するしないの判断は人それぞれですから。
我慢をするしないを迷う時、どっちにも自分が大切なものがあるほど悩みます。
そんなとき、話を聴いてあげられる存在としてコーチングを学んだ人がいると
不安を力に変えることができると考えています。